陪審員制度が今年の5月に施行された。導入された当初は、テレビで頻繁に取り上げられたが、最近は、本当に時より見るだけになった。その後、どうなっているのだろう?
「陪審員制度」は、専門家が検討したうえでの導入であるので、裁判のスピード化をはじめ多くのメリットはあるのであろう。逆に懸念として出されているのが、「法の専門家でもない一般国民が、本当にまともな審議ができるか?」といった否定的な意見が多い。自分自身は法の専門家ではないので、感覚で意見を言うのは控えたいが、陪審員が事件を審議する集団プロセスについて考えてみたい。
人が集まると集団になるが、集団そのものが持つ特性により、実際、やろうとしている内容にも当然影響が及んでくる。例えば、集団圧力が発生する。うちのカミサンも子供の父兄の会合に出ると、一部の数人の方々の意見が大勢を占め、全く話せなくなるという。どこでも、起きているんだろうな~子供の世界もおそらく同じだろうと感じる。
陪審員は、6人~12人で検討されるが、これも集団には違いない。そうすれば、集団圧力も発生するのではないか?と思うからである。何故、こんなことを思うかというと、私が今の会社に入社したとき、よく教材に使っていた「映画 十二人の怒れる男」を思い出したからだ。
ストーリーは、ほぼ被告の有罪が疑いの余地がないといった意見が一致している状態から、犯人の有罪に疑いを抱いた一人の陪審員が、自分の信念に基づく意見を言う中で、次第に、他の陪審員に影響を与え、意見を変えていくといったストーリーである。その中で、他の陪審員も自分自身の意見に耳を傾けるようになっていく様が面白い。
ここで重要なのは、信念を持った陪審員の存在である。そうした倍審員がいる場合は、映画のように変わっていくだろうが、現場はそうはいかない。
映画の場合、たまたま信念ある陪審員がいたからいいものの、そうでなければ、集団圧力もあり、十分な検討がなされないままに結論が出されていたかもしれない。NASAのチャレンジャーの失敗も、上述のような集団圧力により、無理な発射を行い、大惨事になったことを知っている人も多いだろう。
いづれにしても、集団圧力が働かないように、映画のような有能なファシリテーターが必要なのである。専門家同士の場合、ロジカルに法律に則って審議が進められるが、一般の国民同士では、集団圧力が生じやすくなる可能性がある。このような集団圧力の現象を、グループシンクという。
group-think |
合意に至ろうとするプレッシャーから、集団において物事を多様な視点から批判的に評価する能力が欠落する傾向。
集団ゆえに陥りやすい問題の1つに、グループ・シンクがある。特に、集団の凝集性が高い場合や、外部と隔絶している場合、支配的なリーダーが存在する場合などに起きやすい。
グループ・シンクを避けるためには、異なった意見を十分に受け入れ、建設的な批判を重視し、選択肢の分析に時間をかけるなどの配慮が必要である。
■ 関連語集団、集団凝集性 引用:グロービス MBA用語集より
つまり、栽培員制度については、個人的な問題だけでなく、集団が陥りやすい罠である「グループシンク」に陥らないような工夫が必要だ。特に、日本の文化は、あうん、男は黙って・・・といった面がまだまだある。集団の中で、しっかりと主張できる人間は、多くない。学校の授業や会議でも、少し人数が多くなると、誰一人自分から話そうとはしない。
陪審員のメンバーが、グループシンクに陥った状況の中で出された結論により裁かれる側としては、たまったもんではない。陪審員の集団プロセスを想像してみたが、どんな集団でも同様である。集団プロセスを踏まえないと、集団での意思決定の精度が低くなることを、十分に理解しなければならないですね。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。